HOME

 

経済思想の巨人たち

『商工にっぽん』連載2009.4.-2009.11.

橋本努

 

 

 第一回 自生的秩序へと導く「共感」〜アダム・スミス
  第二回 功利主義とロマン主義が邂逅する地平〜J・S・ミル

 第三回 禁断の恋と革命思想〜カール・マルクス

 第四回 実業から生まれた自由経済の理論〜デヴィッド・リカード

 第五回 人々を魅了する華麗なる天才〜J・M・ケインズ

 第六回 資本主義の発展を冷徹に観察する天才〜ソースタイン・ヴェブレン

 第七回 最終回 市場を擁護する二〇世紀最大の経済思想家〜フリードリッヒ・フォン・ハイエク

 

 

(コーナー趣旨)

すべての人が経済的に貧しくなく幸せに生きていける社会を構想した場合、その社会の普遍原理は何であるか――。先人達が何度も鍛え直し、築き上げた思想は刺激に満ち、ダイナミックである。誰かの人生哲学やどこかの企業理念に満足している場合ではない。

 

(書き手)

北海道大学大学院 准教授 橋本努

 

 

 

第一回 自生的秩序へと導く「共感」〜アダム・スミス

 

(プロフィール)

アダム・スミス(Adam Smith 1723‐1790)スコットランド生まれの経済学者。「経済学の父」と呼ばれる。主著は『国富論』(原題『諸国民の富の性質と原因の研究』An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)、『道徳感情論』(The Theory of Moral Sentiments)。

 

(リード)

一般にアダム・スミスといえば「神の見えざる手」という有名なフレーズとともに、経済的自由主義を提唱した人物として知られているが、それが強調されるあまり、「利己主義的な個人を肯定した人物」という捉え方をされている傾向もある。しかし、『国富論』に並ぶスミスの主著『道徳感情論』を読めば、そうした解釈がいかに浅薄であるかがわかるだろう。人間の強さや弱さを深く洞察したスミスの思想を紹介しよう。

 

 

 

■ でかした! すばらしい! スミス君

 

主著の『国富論』を執筆しているとき、スミスはとても幸せだった。「ここ一ヶ月というもの、小生はずいぶん懸命にこれに打ちこんでおります。小生の楽しみは、海岸を一人でゆっくりと散歩することです。……小生はたいへん幸福で快適で満足です。こんなことは生涯をつうじてなかったと思うほどです」。スミスは四四歳にして、スコットランドの生まれ故郷、カーコーディの田舎町に隠居して、そこで母親と二人暮らしをしながら『国富論』の執筆に没頭したのだった。

もともと「暇つぶしのために」と言って、スミスは四一歳のときに、フランスのトゥールーズで『国富論』を書き始めている。それから五三歳で出版に漕ぎつけるまで、実に一二年の月日を費やした。あるときはカーコーディで、またあるときはロンドンで、スミスはこの著作を入念に仕上げることで、歴史に名を刻んだのである。

『国富論』が刊行されたとき、友人で年上の哲学者デビッド・ヒューム(一七一一―一七七六)は、歓喜した。「でかした! すばらしい! スミス君、小生は君のお仕事に大変満足しています。……小生は出るのはいつかいつかと待っていましたが、これで大いにほっとしました」。こうして惜しみない賛辞を送ったヒュームは、その5か月後に他界してしまうのだが。

 貧困をなくすためにはどうすればいいか。しかも国富を増大させるにはどうすればよいのか。これがスミス『国富論』の課題である。階級をなくして所得を平等にするのか、それとも生産力を増大させて、最も貧しい人にも富が行き渡るようにすればよいのか。スミスは後者の考え方に立って、経済的自由主義を導入すべきと主張した。ただし国富が増大しなければ、経済的自由は制約されるべきことも、スミスはよく理解していた。

 スミスによれば、経済の重要な使命とは「国富の増大」である。では「国富」とはなにか。それは貨幣を貯めこむことではなくて、毎年生産される消費財を増やすことである。このように考えたスミスは、一部の特定階級の利益を追求するような重商主義政策を批判して、貧民を含めたすべての国民の利益を追求する自由交易を推奨した。

 一般にスミスは、利己主義的な個人を肯定したといわれるが、それは違う。スミスによれば、人々は利己心の強さとは無関係に、歴史のなかで「交換性向」を獲得してきたという。この性向のおかげで、人々は利己的に動く場合でも、社会の秩序を壊すことなく、安定した商業活動を営むことができるようになった。例えば封建時代には、たえず隣人とのあいだで戦争状態を生み出していた利己心が、近代的な法制の整備とともに、次第に秩序と繁栄を生み出していく。分業の発展によって、人々はいわば「神の見えざる手」に導かれて社会を成長させていく。その発展のプロセスに、スミスは注目したのだった。

利己心といってもいろいろある。問題は、どんな利己心がどんな条件の下で公共の利益を増大させるのか、という点だ。スミスは、利己心をうまく刺激して社会をよくするために、人々の労働の対価として、「手間と労苦」に見合った配慮を求めた。法や制度を整備することで、人々に労苦に見合った報酬を保証し、それでもって人々の勤労意欲を高めていく。そのような配慮によって、経済秩序を安定させ、システム全体を成長させようと展望したのだった。言ってみれば、人々の交換性向をうまく利用して、文明を築くような社会を構想したのであった。

近代文明は、利己心を抑えるよりも交換性向によって進展する。人々の交換性向が、経済の発展をいっそう導いていく。そのための道徳的な条件が、他者に対する「共感(同感)」である。実はスミスは、国富を論じる前に「共感」をキーワードにした道徳哲学を築いていた。スミスのもう一つの主著『道徳感情論』は三六歳の時に刊行されている。まず道徳哲学の基礎を固め、そこから国富増大の可能性を探求したのだった。

 

 

■ 野心や虚栄心もまた必要である

 

もともと人口約二千人のカーコーディで一人っ子として生まれたスミスは、生涯を独身で通し、多くの時間を母親と二人で暮らした。不幸にも父親は、スミスが生まれる直前に他界してしまった。だからスミスの道徳論は、家庭道徳を基盤にしていない。むしろ個人と社会の関係を、直接的に考えるような道徳論を展開することができた。

スミスは、一四歳でグラスゴウ大学に入学すると、カリスマ教授ハチスンの講義を聴いて、大いに感銘している。しかもスミスは、ヒュームの『人性論』を読んでその抜書きを作っていたという。いまの日本人の感覚で言えば、スミスはおよそ高校生の時分から、同時代を代表する二人の哲学者に傾倒したわけである。そしてスミスは、この二人を乗り越えるような道徳哲学を築くという野心を抱いた。

 スミスの『道徳感情論』は、人間は理性によって動くのではなく、感情によって動かされる、とまず想定する。この考え方はハチスンやヒュームにも共有されていたが、スミスはさらに、「共感(同感)」という感情に注目して新たな議論を展開した。人は感情で動くといっても、他人からどう思われるかを気にしてしまう。また、他人がどんな賞賛を得ているのか、あるいは自分よりも幸せなのかどうか、ということも気になる。人はたんに、自分の感情にしたがって粗野に生きるのではなく、他人に賞賛されるかどうか、他人も同じように感じてくれるかどうか、そういう「共感」の問題に敏感であり、他人の賞賛を求めて生きている。

人はつまり、「喜び」や「悲しみ」、「幸せ」や「不幸」といった自分の感情を、たえず他人の視点からチェックしている。例えば「こういう場面では喜びを感じていいのだろうか」とか、「苦しみを感じるべきだろうか」とたえず考える。こういう反省的な問いかけによって、自分の感情を社会関係の中でうまく形成していくということに、スミスは注目したのだった。

 そしてスミスは、こうした人間の「共感」力をうまく利用して、社会を統治することが望ましいと考えたのだ。人はできるだけ多くの他人から、共感を受けるように行動すべきである。例えば、人々が「感謝」の念を抱く場合には「報酬」を、また人々が「憤慨」の念を抱く場合には「処罰」を、それぞれ与えることがふさわしい。もちろん、そのような報酬と処罰の判断は、個々バラバラに判断するとあやふやになってしまうので、社会全体として、「公平な観察者」の立場に立つことができるような人に判断してもらう。このようにすれば、私たちの社会は共感の原理によって、正義と慈愛が体系的に実践されるだろう。これがスミスの道徳原理だ。

 では例えば、他人を出し抜いて巨万の富を得るとか、人々が羨望するほどゴージャスな生活をするというのは、共感できないがゆえに否定されるべきだろうか。スミスによれば、ひたすら経済的利得を求めるような人間の野心や虚栄心であっても、それが結果として他の人々に利するものなら、共感できるという。人々が切磋琢磨して働き、あるいは節約して豊かな生活を送るためには、野心や虚栄心は必要である、というのがスミスの人間観である。問題は、そうした野心や虚栄心を、どのように促進したり制御したりするかである。スミスは、人々の幸福を増大させるために、中間層の生活水準に注目してさまざまな政策指針を提起した。

 例えばスミスだったら、消費者金融の自由化、規制緩和には反対するだろう。自由な市場経済を認めるといっても、消費者金融の利子率を自由化すると、人々は勤勉に働くインセンティブを失ってしまうかもしれない。だから経済の秩序は、人々が勤勉にお金を稼ぐように形成されなければならない、というのがスミスの考え方だ。

 ただ勤勉に稼ぐといっても、それは虚栄心と無縁なのではない。この世の中、「公共のために」とか「国のために」と言って誠実に働くような人は、実は信用できない。「公共の利益のために仕事をするなどと気どっている人たち」はあまり利益を増大させないからである。

 

 

【コラム】著作に没頭できたスミスの後半生

 

スミスは41歳のときに、幸運にも、もはや大学で教えなくても暮らしていけるようになった。バックルー公爵の家庭教師としてフランスに3年間同行することで、その後の年金まで保証されることになったからである。当時の大学教授の年収は、だいたい170ポンドで、年金はなし。これに対して貴族の家庭教師になれば、年収300ポンドで、さらに同額の年金が支給されるという。これは現在の大学教員の感覚から言えば、年収800万円の准教授が、もはや働かなくても年収1500万円を保証されるようなものである。以降のスミスは、大学教授を辞めて、ひたすら『国富論』の執筆に没頭できたのであった。

 1776年、53歳にして『国富論』が刊行されると、スミスは一躍スターになり、再びロンドンで社交的な生活を楽しんだ。またその2年後には、名誉なことに、スコットランドの関税委員に任命され、年収は合計900ポンドになった。それでスミスは、エディンバラの邸宅で王侯のように暮らすことができたのである。その邸宅から、スミスは毎朝歩いて王立取引所に通ったというが、その歩き方はとくに人目を引いた。次の一歩がどの方向に向かうのか分からないほど、スミスはうねうねと揺れ動き、おまけにいつも、唇を動かしながら、架空の人物とにこやかに会話をしていたという。

 61歳のときに母が九〇歳で亡くなると、スミスの体力はみるみると衰えていった。もともとがっしりした体格だったのに、痩せて骨と皮になってしまった。スミスはしかも、胆嚢の頸部の炎症や悪性の痔疾に苦しんだ。それでもロンドンを訪問して、政治家たちと交わった。当時の首相ウィリアム・ピットは、スミスの信奉者となって、関税の軽減などの自由主義政策を勢力的に実現している。自分の政策構想が次々と実現されていく。そんなプロセスを目の当たりにしたスミスは、幸せな気分でエディンバラに戻り、そこで67年の生涯を閉じたのだった。

 

 

 

 

第二回 功利主義とロマン主義が邂逅する地平〜J・S・ミル

 

(プロフィール)

ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill 1806- 1873) イギリスの経済学者。ベンサムの功利主義を受け継ぎ、その後の自由主義思想、社会主義思想に影響を与えた。主著は『経済学原理』(Principles of Political Economy)、他『自由論』(On Liberty)、『功利主義』(Utilitarianism)など。

 

(リード)

J・S・ミルといえば、「功利主義」を提唱した哲学者というイメージが強い。だが、アダム・スミス、D・リカード等、イギリスで発展してきた古典的経済学の系譜を受け継いだ経済学者でもある。そこには哲学、経済学といったジャンルにおさまりきれないミルの思想がある。また、その背景には極端に高度な教育を受けた人間の苦悩に満ちた人生がある。一九世紀にミルが社会に投げかけた問題提起は、現代の社会にも響くものが少なくない。

 

 

■ 満足したブタより、不満足なソクラテス

 

 ジョン・スチュアート・ミルが六歳のとき、父ジェームズ・ミル(一七七三-一八三六)は重い病気に苦しんでいた。「私は子どもの精神を形づくる前に、自分が死んでしまうのではないかと思うと、とても苦しいのです。ベンサムさん、私はあなたの申し出を真剣に考えましょう。私たちはなんとかして、彼を私たちの後継者として残すことができるでしょう」

 父ジェームズは、自分がもし死んだら、功利主義の主唱者のジェレミ・ベンサム(一七四八-一八三二)に息子の教育をお願いしようと考えていた。そしてベンサムもその申し出を受け入れていた。二人はどうも、ミルを立派な功利主義者に育て上げたかったようである。

幸いにして、父ジェームズは病から回復する。けれどもミル家は、当時、貧しい生活を忍んでいた。父は執筆に専念するかたわら、若干の家庭教師から得られる収入だけで、生計を支えていたのである。父が定職にありつけたのは、ミルが一三歳のときで、大著『英領インド史』が好評を博して、東インド会社に就職することができたからであった。

ジェームズは、ベンサムが提唱する功利主義の信奉者であった。彼には野心があった。自分の子どもたちに徹底的な英才教育を施して、功利主義の思想を「純粋培養」しようと企てたのである。

ミルは、一八〇六年に、九人兄弟姉妹の長男としてロンドンに生まれている。ミルの人生は、英才教育によって成功した近代人の、最高の事例ともいえよう。宗教を離れて、どんな立派な人生を送ることができるのか。そのバイブルとされるのがミル著『自伝』であり、古典として広く読み継がれている。

ミルの経済思想とは、ベンサムの功利主義に、ロマン主義のスパイスを混ぜたものと言えるだろう。ベンサムのいう功利主義とは、快楽や幸福をもたらす行ないを「善」とし、個人の幸福の総計が社会全体の幸福である、というものだ。ベンサムは人々の幸福を最大化するような社会を構想すべきだと主張した。いわゆる「最大多数の最大幸福」である。「快楽」をストレートに追い求めることに否定的なキリスト教の社会にあって、ベンサムのアイデアは画期的なものであり、近代の合理主義を徹底する考え方を切り拓いていった。

ベンサムに感銘を受けたミルは、そのアイデアを継承していくことになるが、一方で疑問もあった。「快楽」といっても、どんな快楽でもよいのか? 人は快を求め、苦を避けようとする。とはいっても人は、野獣のような快楽に満足するわけではない。快楽にも高級なものと低級なものがあって、高級な快楽を知ってしまった人間は、「満足したブタであるよりも、不満足の人間であるほうがよいし、満足した愚か者であるよりも、不満足なソクラテスである方がよい」と感じるからである。

 むろん、高級な快楽を享受するための能力は、か弱くて萎えやすいものである。それを十分に承知していたミルは、快楽の追求を、それぞれの個人に任せるのではなく、高級な快楽と低級な快楽の両方を知っている人たちの一般的な判断に任せるべきと考えた。そのような一般的判断によって、社会全体としてどんな快楽が追求されるべきかを、目標設定しようというわけである。

例えば、どんなお米を作るのか、どんな音楽コンクールをすべきなのか。こうした判断をうまく下すために、人々は教育を通じて、まず高級な快楽を享受できるようにならなければならない。そしてすぐれた教育を受けた人たちが、民主的に議論して社会の目標を設計していく。これがミルの功利主義の骨格である。

 一般に「よい社会」とは、さまざまな種類に富んだ快楽があって、受動的な快楽よりも能動的な快楽の方がまさっている空間だといえる。だからミルは、多様性と能動的快楽を重んじた。もう一つには、人は自分の快楽を追求するだけでは人生に満足できないのであって、やはり他人の快楽のことが気になって仕方がない。幸福になるためには、他人の幸福や人類の進歩について、気遣わねばならない。加えて第三に、人は、自分が成長しないと、いつになっても充足しない。「最大多数の最大幸福」を満たすためにも、私たちはまず自身の個性を発展させなければならない。芸術の追求によって、強い内面的個性を育まなければならない、とミルは考えた。

 

 

■ 人妻ハリエットとの道ならぬ恋

 

 ミルのもう一つの思想的核は、「自由主義」である。ベンサム流の功利主義では、必ずしも少数者の幸福が確保されない。幸福の総量を増大させるために、少数者の幸福は犠牲にされてしまうかもしれないからである。ミルは、圧制者や多数者の抑圧から、少数派の人々の権利を守りたいと思った。この考え方は現在、リベラリズム思想の基本になっているが、もともとミルの生きた一九世紀に台頭してきたものだ。

実はミルは、二四歳のときに、美人で才女の人妻、ハリエット(一八〇七-一八五八)に恋をする。ハリエットもミルに熱烈となり、彼女はその三年後に、夫と子どもを捨てて別居し、ミルと旅行したり、ミルの研究を助け始めたりしている。主著『経済学原理』や『論理学体系』の執筆に際して、ミルは人妻ハリエットの助力を得ていたのである。

ミルはとにかく、ハリエットに夢中だった。彼は彼女を賛美してやまなかった。「彼女のような感情と想像力を持っていれば、まったく完璧な芸術家になっていたであろうし、彼女の火のように燃えていて、しかも優しい魂とあの力強い雄弁のために、彼女は偉大な演説家に確実になっていたであろう。」

二人の交際は約二〇年間続く。もっともミルによれば、性愛抜きの純愛関係だったようだが。やがてハリエットの夫、ジョン・テイラーが亡くなると、ミルは晴れて、四五歳にしてハリエットと結婚することができた。けれども二人に対する世間の眼は、当初から冷たいものだった。スキャンダラスで浮世離れした二人は、そもそも孤立していたのである。

 そんなミルが『自由論』で主張しているのは、自分が周囲の人々から受けている圧迫感を払拭したい、という願いだった。お願いだから、僕たちの関係を道徳的につべこべ非難しないでほしい。――これがミルの本音であったにちがいない。多数派の意見は、しばしば感情の暴虐となって少数派を圧迫してしまうことがある。それでは多様な考え方は生まれないのであって、自由に個性を発展させることはできない、というわけである。

ミルは男女対等でロマンチックな恋愛を重んじた。しかも、女性の情操が、男性の追い求める理想を示すべきだ、というロマンチックな騎士道精神を理想とした。この点でミルは、功利主義の原則を緩めたと言えるだろう。

 

 

■ ミルの功績と現代的意義

 

 経済学者としてのミルは、独創的とは言えない。主著『経済学原理』は、当時の最新の成果を折衷的にまとめたものにすぎないからである。ではミルの功績とは何か。それは「リベラルな人間観」を前面に出して、時代を生き抜いたことにあるのではないか。

ミルには明快なビジョンがあった。社会の近代化のためには、労働意欲を掻きたてなければならない。そのためには労働者に自己所有の権利を与え、プライバシーを尊重しなければならない。ヴィクトリア朝時代の英国は、経済的繁栄を享受した一方で、貧困や格差を生みだしていた。その中にあって、労働者がいかに高級な快楽をもって生きることができるのか。労働者にもいわばプライドの基盤を与えることが、彼らにとって本当の快楽になると考えたのである。

もう一つ、ミルは、59歳でウェストミンスター選挙区から立候補し、下院議員として当選している。アイルランド問題や女性問題について少数派の意見を代弁し、マイノリティの自由が保障されるリベラルな社会を目指して果敢に行動した。ただしその3年後の選挙では、落選してしまう。信念を貫き、リベラルな社会のために生を捧げた思想家であったと言えるだろう。

 

 

【コラム】 英才教育ゆえの苦悩

 

ミルは3歳からギリシア語を教えられ、7歳にしてプラトンの対話編を原語で読んだ。8歳でトゥキュディデス、ソフォクレス、アリストファネスなどを読み、9歳でホメロス、デモステネスなどを読んでいる。さらにラテン語でキケロを読み、ユークリッド幾何学やガージーの代数学、ニュートンの数学を学んだ。

13歳になると、プラトンの『国家』を読破し、リカードの経済学とトムソンの化学体系を学ぶ。またこの頃から、オランダ史やローマ史の草稿を書いたりもしている。14歳になると、父は息子をフランスに一年間留学させることにした。ベンサムの弟が暮らす南フランスの家に招かれたミルは、厳しい日課をこなした。例えばある夏の日は、「5時起床。8時まで川で水浴。9時までフランス語、10時まで朝食、10時半まで音楽理論、2時までフランス語、ギリシア語、ラテン語、数学、論理学、経済学、5時まで夕食、6時まで乗馬、7時までフェンシング、8時半までダンス、9時までお茶の時間」といった具合だ。

 ミルが留学から帰国すると、父はまさに、英才教育のクライマックスというべき事業にとりかかった。「潮は満ちた。一度時を失するならば、時は永遠に到来しないだろう。」父は息子に、ベンサムの最大の著作『立法論』全3巻を手渡したのである。ミルはこれを読んで、強烈なインパクトを受けたようだ。「『立法論』の最後の巻を読み終えたとき、私は別の人間になってしまった」。

晩年になってミルは、英才教育を受けた自分の欠点とは、いったい何なのかについて考えた。父の教育は「愛の教育」ではなく「恐怖の教育」であったため、自分は愛情そのものを殺すようになってしまったのではないか。自分は、自発性がなく、道徳的感覚や知性の相当な部分さえも、他人に促されなければ発揮できなかった、というのである。こういうタイプの人は、現在でもとくにエリート層の若者に多いのではないだろうか。

自分が受けた教育に欠けているのは、豊かな人間愛と利他心を育むことであった。そのことに気づいたミルは、豊かな感情を取り戻すために、詩の世界や社会主義の情熱的構想にのめりこんでいったのだった。

 

 

 

 

第三回 禁断の恋と革命思想〜カール・マルクス

 

(プロフィール)

カール・ハインリヒ・マルクス(Karl Heinrich Marx  1818 - 1883)ドイツの経済学者、哲学者であり革命家。主著は『資本論』( Das Kapital)、そのほか他、ドイツ・イデオロギー』 (Die Deutsche Ideologie)、『共産党宣言』(Das Kommunistische Manifest)など。

 

(リード)

資本主義の発展により共産主義社会が到来する――というマルクスの宣託も、その効力を失って久しい。しかし貧困、格差、労働者の疎外など、マルクスが19世紀に取り組んだテーマは、まさに現代の問題である。資本主義に楽観的な希望を見出せない今、次の社会を構想するうえでのヒントが、その諸著作のなかにはある。このことは、マルクスのことを嫌いだという人も否定し得ないだろう。

 

 

 

■ すべての女性を共有できれば幸せになれる

 

 カール・マルクス(1818-1883)の夫人イェニー(**-**)は、癌に苦しんでいた。もう二年以上も手を尽くしてきたのだけれども、ついにマルクス本人も肺充血に襲われてしまう。二人の余命は幾ばくもなかった。それでも、二人が快方に向かう一時期があって、後に娘のエリーナは次のように記している。

「私は決して忘れないでしょう。父が母さんの部屋に行けるほど快くなったあの朝のことを。二人は再びいっしょになり、若返りました。母は恋する乙女、父は恋する若者で、手をたずさえて人生の道に踏み出す者のようでした。――今生の別れを告げ合っている、あやういところで病気から助かった老人と、瀕死の老婦人とは、とても思えませんでした。」

 ドイツの西の果てにあるトリール。その街で幼ななじみとして育ったマルクスとイェニーは、いつごろ恋をしたのだろうか。当時のイェニーは、「トリールきっての美しい娘さん」とか「舞踏会の女王」などと呼ばれる人気者だった。誰もが言い寄るような、プロイセン貴族ヴェストファーレン家のお嬢様である。そんな彼女に、四歳も年下のマルクスが挑戦し、ひそかに婚約にまで漕ぎつけたのは、マルクスが一七歳のとき、イェニー二一歳のときだった。

禁断の恋である。二人の関係は、家系的にも年齢的にも、あまりにもギャップがあった。マルクスの家系はユダヤ教の律法師(ラビ)で、父は弁護士。当時は反ユダヤ主義が席巻し、ユダヤ人は公職につけないという迫害のなかで、マルクス家はプロテスタントに改宗したりもしている。

それでもマルクスは、イェニーの心を勝ち得た。だが彼女の家に手紙すら出すことができなかったマルクスは、その絶望的な恋を詩に託して表現し、一八歳のときに『リートの本』と『愛の本(二巻)』という三冊の詩の手帳をイェニーに送っている。そして翌年、正式にヴェストファーレン家に結婚を申し込むが、きっぱりと断られる。イェニーは絶望のあまり病気になった。二人が結婚に至ったのはそれから六年後、マルクス二五歳、ジェニー二九歳のときだった。

 こうしてみると、マルクスは、いかにも恋する青年だが、純愛物語に出てくるような単純明快な人物ではもちろんない。若きマルクスには隠れたビジョンがあった。結婚制度を破棄して、すべての女性を共同体の財産にしようというのである。「女性共有というこの思想こそ、まだまったく粗野で無思想なこの共産主義の告白された秘密だといえよう。」マルクスにとって、財産の私的所有も妻の私的所有も、どちらも利己的だからよくない。私たちはむしろ、個人的な所有欲を放棄すれば、すべての女性を共有できて幸せになれる、というわけだ。

今なら人権問題に発展しそうな発言だが、女性を財産と同様に見立てたこの謂いは、当時の女性の現実を指摘したにすぎない。また、これをとんでもない発想だと思うのであれば、妻や夫、恋人が浮気をしたケースを想定してみよう。大抵の人は不愉快に思うだろう。だが、不愉快に思うのは、人間である夫や妻や恋人を、どこか所有物と見立てているからではないだろうか。いずれにせよ、このエロチックな考え方に導かれて、マルクスは私有財産の放棄を展望したのである。

 

 

■ いつでもどこでも働きたいときに働けるユートピア

 

 マルクスは、一六歳になると父の考えにしたがってボン大学の法学部に入学する。だがどうしても哲学を学びたかったマルクスは、翌年、ベルリン大学に移り、その5年後に「デモクリトスとエピクロスにおける自然哲学の差異」という卒論をイェナ大学に提出した。大学教授になりたかった。けれどもユダヤ人には政治的に難しかった。そこでマルクスは『ライン新聞』でジャーナリストとしてのキャリアを始め、その半年後に主筆となる。ところが翌年、ライン新聞が一時発禁処分に処せられると、マルクスはフランスのパリへと向かい、雑誌『独仏年誌』を刊行するかたわら、生涯の友となるフリードリヒ・エンゲルス(**-**)と一緒に共著『聖家族』を出版する。

さらに、いまや不朽の名著とされる『ドイツ・イデオロギー』を二人は完成させている。ただ本書は、ドイツの検閲で引っ掛かり、生前には刊行されなかった。マルクスの死後、同書を含めた初期のマルクスの仕事が注目されるが、というのもマルクスは同書のなかで、共産主義の理想を豊かに語っていたからである。

「共産主義の社会では、各人は……どこでもすきな部門で、自分を発達させることができるのであって、社会が生産全般を規制している。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、けっして狩人、漁師、牧人、あるいは批判家にならなくてよいのである。」

いつでもどこでも、働きたいときに働きたい仕事をする。それがマルクスのユートピアだった。現代のマルクス主義者のなかには、その理想が「創造階級」と呼ばれる人たちの生活に体現されている、とみる人もいる。皮肉にも、マルクスのいう労働の理想は、現代の資本主義において実現され始めたのである。

 マルクスが三〇歳のときにエンゲルスとともに著した『共産党宣言』は、革命のためのパンフレットである。マルクスとエンゲルスは、この著作を刊行する前から、政治的にはきわめて危険視され、なんども亡命を余儀なくされている。それでもマルクスは、ブリュッセルの「民主主義協会」の副会長になったり、自分の指導で共産主義社同盟中央委員会を設立したり、あるいは各国の民主主義組織と労働者組織の連携を図ったりしている。

 ではマルクスのいう共産主義とは、どんな体制か。マルクスは「女性の共有」という考えを抱いたものの、その先の共産主義のビジョンをほとんど描かなかった。その都度の歴史段階で、エネルギッシュに社会変革することが共産主義の原理だと考えた。マルクスは理想を描ききれなかったように思う。

 

 

■ 『資本論』の世界?

 

 マルクスは、さまざまな国で亡命生活を送ったが、三一歳になるとようやく腰を据えて、ロンドンに居を構えている。大英博物館の膨大な図書資料を利用しながら、『経済学批判要綱』を約十年かけて書き上げた。その後もマルクスは、国際共産主義の運動に関わりながら、長大な研究ノートを書き進めていく。そして四九歳のときに、大著『資本論』の第一巻を刊行する。誰もがその意義を認める本書は、一九世紀末から二〇世紀後半にかけての各国の社会主義運動を支えただけでなく、私たちの時代精神を大きく規定することになった。

『資本論』は、スミスからミルに至る古典派経済学とは、まったく異なる新しい経済学を打ち立てた。それは人々が、市場で翻弄される姿を描き出すものであり、とくに最初の「価値形態論」は、経済学の通念を塗り替えた。一般に市場経済で問題となるのは、最適な価格を決めることである。もし貨幣が存在しなければ、売り手はとにかく、自分の商品の値打ちを相手の商品の量で表現しなければならない。例えば、私のこの洋服は、あなたその靴の二倍の価値がある、といった具合である。こうして売り手たちが自分の商品の価値を互いに無数の商品の量で表現しあうと、その表現の数は膨大になるだろう。

ところがその無数の表現を、売り手たちがみな一つの貨幣で表現すれば、値打ちをめぐるコミュニケーションはスムーズになる。その過程をマルクスは、諸商品のなかから一つの商品が貨幣として排除されるメカニズムとして描いたのだった。その排除の作用はしかし、近年の経済危機のように、御し難い景気変動となって襲ってくる。自生的に生まれた貨幣が、自生的な無秩序をもたらすのである。それをマルクスは論理の力でつきとめた。人々はなぜ、これほど貨幣を愛し、そして貨幣に翻弄されてしまうのか。『資本論』第一巻を再読すれば、その答えが分かるだろう。

 

 

【コラム】家計に無頓着な人間

 

 マルクスは、家計については無頓着というか無能力で、パリで国外追放を命じられたときにも、一文無しだった。エンゲルスは大いに心配して、自分の著作『イギリスにおける労働者階級の状態』の著作権を、マルクスに譲ったが、それでもマルクスは、そのお金をドイツからの亡命者たちのために使い果たすような人間だった。

 お金儲けには縁がない。マルクスは生涯に膨大な文書を執筆したものの、ほとんどお金にならなかった。一度、34歳の頃に、研究をやめてイギリスの鉄道会社で書記として働こうと思ったことがある。けれどもマルクスはかなりの悪筆で、採用されなかった。

 マルクスの家族は極度の貧困を強いられ、子供たちは長く生きることができなかった。イェニーは記している。「生きている三人の子供たちが、私たちのすぐそばに横たわっているのに、色蒼ざめて冷たくなる……。愛するこの子(三女のフランツィスカ)が死んだのは、私たちの貧乏が最もひどい時期のことでした。」

 貧困と苛酷な生活から、やがてジェニーは、精神的にも肉体的にも病んでしまう。マルクスによれば、「妻は病み、小さな長女も病気で、小さなエリーナは神経熱みたいなものを出している。医者は呼べなかったし、今も呼べない。薬代を払う金がないからだ。一週間このかた、私はパンとジャガイモで家族を養っている、そして今日もそれを手にいれることができるだろうかと自問している。」

 そんな悲惨な生活も、やがて一段落した。マルクスが38歳のときに、妻のジェニーは母と伯父から遺産として5000マルクを受け取ることができたのである。マルクス家は、ロンドンの貧民窟を去って、北の郊外に一軒家を借りた。ところが家族はみな病気になり、家財を質屋に売らねばならなかった。「妻は毎日、私に言うのだ、いっそ子どもたちといっしょにお墓に入ってしまいたい、と。」

 だがようやくエンゲルスの商売が軌道に乗ると、マルクスは再び居を移し、執筆に没頭することができたのだった。

 

 

 

 

第四回 実業から生まれた自由経済の理論〜デヴィッド・リカード

 

(プロフィール)

デヴィッド・リカード(David Ricardo 1772 - 1823)

イギリスの経済学者。主著は『経済学および課税の原理』(Principles of Political Economy and Taxation)

 

(リード)

歴史に名を残した第一級の経済学者とは、通常、高等教育を受け、大学教授という肩書きを持っている人がほとんである。ところがリカードはそうではない。彼はもともと株式仲介人であり、巨万の富を築いたビジネスの成功者だ。実学で培ったビジネスの嗅覚をベースに、経済理論を体系化させたリカードは、古典派経済学の完成者と呼ばれている。

 

 

 

■ ユダヤ教、そして家族との決別

 

 二一歳のデヴィッド・リカードは、一大決心をした。

「若いリカードは、こうして自らものを考えることができるようになり、まもなくユダヤ教の信仰に、あまり愛着を示さなくなった。リカードは、ユダヤ教から完全に離れるために、キリスト教徒の女性と結婚したのである。このことは彼の母を大いに怒らせ、母は息子を家から追放するよう、父に強請したのだった」(リカードの存命中に刊行された『万国知名人録』より)

 リカードは、一七人の兄弟中、第三子として、一七七二年にユダヤの家庭に生まれている。そして二一歳のときにクエーカー教徒の医者の娘、プリシラ・アン・ウィルキンソン嬢と結婚した。相手は彼よりも四歳年上だった。美しくて教養があり、気立てのよい女性だったという。リカードにとって結婚は、ユダヤ教のみならず、巨万の富を稼いだ父からの遺産相続を、放棄するという決断を意味していたのだ。

後年、リカードは、母が亡くなる直前に、父と和解している。それでも父から相続した遺産は、わずかの五〇ポンド。リカード自身も巨万の富を稼いだので、もはや遺産を相続する必要がないとみなされたのだった。

 リカードといえば、今日では第一級の経済学者として知られよう。だがその生涯を振りかえってみると、彼はむしろ「株屋として成功した人」といったほうがよい。彼は堅実に株で儲け、公債引受で成功した。そして晩年には、多額の金をつぎ込んで代議士となり、急進派の政治家としても活躍している。まさにカネと権力を手に入れた人生だった。けれども人格的にはきわめて高潔で、誠実かつ率直、控え目で遠慮がちな人だったという。

さまざまな才能に恵まれたリカードだが、彼は大学を出ていない。父と母はいずれも、オランダ系のユダヤ商人で、実学を重んじていたのだ。リカードは幼少の頃、オランダに住む祖父たちの下で、二年間の教育を受けたことがある。けれどもイギリスでは、両親の意向にしたがって普通教育を受けたにすぎない。一四歳になると、すでに父の店で商売の見習いを始める。そして結婚する二一歳までには、リカードは、株式仲介人として一人前に独立できるだけの知識と腕を身につけたのであった。

 

 

■ 地金論争でデビュー、穀物法論争で一流経済学者に

 

 金儲けに長け、世間を渡り歩く力を人一倍もっていたリカードだが、若い頃は、教養のない父に反発し、ひたすら内向的に勉強するという一面もあった。二〇代になったリカードは、仕事のかたわら、余暇の時間を数学や化学や地学や鉱物学などの研究に当てている。彼は実験室を準備し、鉱物を収集し、地質学会のメンバーにもなった。

二七歳のとき、リカードは妻の療養のためにバース(イングランド西部)を訪れると、そこでスミスの『国富論』を読んで感動した。それまで「経済学のことなど考えてもみなかった」というリカードだが、それ以後は経済学に没頭し、一八〇九年には無署名のエッセイ「金の価格」を『モーニング・クロニクル』誌に寄せている。すると同誌には、同じく無署名の寄稿者がリカードに反論を寄せ、誌上で「地金論争」が繰り広げられた。

 実は当時、イギリスは地金の高騰によって、イングランド銀行券の価値下落に見舞われていた。しかしリカードの見るところ、銀行券の下落の真の原因は、イングランド銀行による不換紙幣の増発にある。紙幣の発行を抑制しないかぎり、銀行券と金の兌換を再開することはできない、とリカードは論じたのだ。この論争によって、リカードは一躍有名になる。リカードはその後も、ビジネスの世界で培った嗅覚を、経済理論として提示していった。

 リカードは論争を通じて、ジェームズ・ミル(一七七三-一八三六)やトマス・ロバート・マルサス(一七六六-一八三四)などの一流の経済学者たちと親しい交友関係を結んだ。そしてミルの勧めによって、一八一七年に主著の『経済学および課税の原理』をまとめると、これが大成功を収め、リカードはのちに「古典派経済学の完成者」としてその位置を不動のものにした。

 リカードの経済学は、経済関係の純化した状態をモデルとして示し、そのモデルから政策的含意を引き出す点に新しさがあった。とくに有名なのは、マルサスとのあいだで闘わされた穀物法論争での立場である。

マルサスは当時、農業保護を提唱していた。マルサスによれば、農作物は、投下された労働量(賃金)と利潤によって価値が決まるのではなく、@天の恵みによる生産や、A供給が需要(人口)を生み出すという生活必需品の特性、あるいはB肥沃な土地の希少性という、三つの要因によってその価値が決まると考えた。とりわけ農作物は、@とAの理由で高価値になるという。ところが社会が発展して人口が増え、肥沃な土地が希少になると、肥沃な土地を所有している人には追加的な地代が支払われる。文明化とともに農作物の生産費が下がるとはいえ、農作物の価格は下がらない。生産費低下で浮いた余剰部分は、地代となって徴収されてしまうからだ。そこでマルサスは、この地代を制御するために、農作物の生産を市場メカニズムに任せるべきではないと考えた。

 これに対してリカードは、そもそも「天の恵み」は、工業生産物にも当てはまると反論した。空気や水や蒸気などは、どんな生産にも自由に使われる。しかもリカードによれば、肥沃な土地に地代が生まれるのは、もともと農作物が投下労働量よりも高価値だからではなく、肥沃ではない土地を用いて農作物が作られた場合に、肥沃な土地に超過利潤が発生するからであり、肥沃な土地だけで農作物の需要が満たされている場合には、地代は生じないという。

 リカードは純粋理論を徹底した。もし肥沃でない土地でも農産物を生産しなければならない場合、労働生産性が低下して、農作物の価格が高くなるだろう。その場合には、国内の痩せた土地で農業を営むよりも、外国の豊かな土地で生産された農作物を輸入するほうが、経済的である。かくしてリカードは、国内の農業を保護することよりも、輸入制限を撤廃すべきだと主張した。マルサスは国家の政治的・社会的安全・安定の観点から、農産物の輸入に反対したが、リカードは経済理論的な思考によって、自由貿易を提唱したのである。

リカードとマルサスは激しい論争を繰り広げた仲だが、お互いに無二の親友であった。マルサスは、ロンドンに来たときには、いつもリカードに家に泊まり、あるいは朝食をともにした。互いに深い信頼で結ばれ、尊敬の念を抱いていたという。ユダヤの株式仲介人と貴族的な牧師のあいだに友情が育まれたこと自体、歴史の奇跡と言えるかもしれない。

 

 

■ リカードの世界観と功績

 

主著を刊行した二年後の一八一九年、リカードは、アイルランドのポータリントンという小選挙区を買い占めて、代議士として出馬して当選する。リカードは、トーリー党にもホウィッグ党にも属さず、独立した立場から政治活動を展開した。ところがその四年後の一八二三年、リカードは耳の疾病を患い、五一歳という若さでこの世を去ってしまう。死の直前まで、だれもが回復するだろうと安心しきっていたのだが、にもかかわらず悲劇が訪れた。

晩年のリカードは、政治以外では、経済学の論壇を形成するために、「経済学クラブ(Political Economy Club)」の創設会員となって活躍した。一八二一年、リカードは主著の第三版を刊行するが、そこでリカードは、機械による生産が労働者の仕事を奪うのではないか、という問題に真摯に応じている。このことはリカードの誠実さを示すエピソードとして、今も語り継がれている。

また、遺稿論文「絶対価値と交換価値」では、絶対価値を「投下労働量」と等値する論理を展開し、マルクス労働価値説の布石となった。

 リカードは確固たる世界観をもっていた。人間は、必要な欲求を充足するのではなく、たえず「死の恐怖」に駆られて労働する。だから人類は、人口の増加が不可能になるまで土地の生産性を食いつぶし、そこで歴史が終わるのだと。その時点まで人類は、労働生産性を追求する。リカードの世界観は、資源を食い潰すまで加熱する現代のグローバル経済を、見通していたと言えよう。

 

 

【コラム】株屋人生

 

リカードは、ユダヤ教を捨てて自由な人生を求めたけれども、それは決して若気の至りではなかった。ビジネスの世界では、リカードはユダヤ商人の教えをよく守り、きわめて有能かつ堅実に働いた。彼の金言は、「損失を切り詰め、利潤を出し続けよ」であった。結婚7年後には、リカードは中堅の株式仲介人として認められ、株式取引所の改組のための委員にも推されている。

その後のリカードは、公債引受人として、大きな賭けに出る。当時のイギリスの政府公債は、人々に直接売りに出されるのではなく、まず公債引受人に発行され、それを引受人が株式取引所で売りに出すという仕方で消化されていた。そこでリカードは1806年から、他の二人と組んで、三人で政府公債の引受人へ応募した。うまく購入できた年もあれば、そうでない年もあった。ところがナポレオン戦争が始まると、1812年からの4年間は、すべての応募者が政府公債を引き受けることができた。リカードもこの機会を捉えて、買った公債をプレミアム付きで手放すことによって、莫大な利潤を得たのである。

最大の利益を得たのは、1815年6月14日、ウォータールーの戦いにおけるウェリントンの勝報を得たときだった。このときは、ユダヤの富豪ロスチャイルド家も、独自の情報網を使って莫大な利益を得ている。ちなみに、リカードの友人の経済学者マルサスは、500万ポンドの政府公債をリカードに保管してもらっていたものの、弱気でいち早く手放してしまい、せっかくの利益を逃してしまった。

 リカードはその後、1819年の政府公債引受では、ロスチャイルド家に敗れて、資格を逃してしまった。これを機会に、リカードはいっさいのビジネスから手を引いた。そして広大な屋敷に退いて、今度は政治活動に勤しんだ。だが結局、リカードは株屋としても政治家としても、名を残さなかった。彼が歴史に名を刻んだのは、やはり経済学者としてなのである。

 

 

 

 

第五回 人々を魅了する華麗なる天才〜J・M・ケインズ

 

(プロフィール)

ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes 1883- 1946)。イギリスの経済学者。大蔵官僚、絵画鑑定家、投資家としても多才ぶりを発揮した。主著は『雇用・利子および貨幣の一般理論』(The General Theory of Employment, Interest, and Money)。

 

(リード)

一九三六年に発行された『雇用・利子および貨幣の一般理論』は、それまでの経済学を「古典派」に追いやったと言われる。以後、七〇年代に「新自由主義」的な経済学に主流の座を奪われるまで、ケインズという存在は経済学の中心であった。そして、現在、「新自由主義」が後退するなかで、再び、ケインズは注目されている。抜きん出た才能で、人々を魅了し続けてきたケインズとは、いったいどのような人物なのだろうか。

 

 

 

■ あらゆる才能に恵まれたエリート

 

 ジョン・メイナード・ケインズ(一八八三-一九四六)の友人で『芸術』の著者でもあるクライブ・ベルは、次のような回想を残している。

「陳腐なことを逆説に変え、逆説を自明の理に変えること、類似点と相違点を発見ないしは発明すること、さらにまったく異質な着想を結びつけることにかけては、ケインズは最高度の才能をもっていた。そのようにして人を楽しませたり驚かせたりする才能によって、きわめて賢い人々は、会話を通じて、人生に独特の妙味を与えることができるのである」

 ケインズは会話の名手だった。会話のために、あらゆる話題を仕込むことができた。彼はそのために、散文家であり、書籍蒐集家であり、絵画鑑定家でもあった。しかも論理学と数学を操り、政治においては並外れた実務家的手腕を発揮した。芸術の分野では、ケンブリッジ芸術劇場の建設に関わり、ナショナル・ギャラリーの理事を務め、現代美術協会のために買い付け役を引き受け、さらにロイヤル・オペラ・ハウスの理事長も勤めたりしている。それでいてケインズは、経済学者として名を残したのだから驚きだ。

ケインズによれば、「経済学者は、ある程度まで数学者であり、歴史家であり、政治家であり、哲学者でなければならない。経済学者は、記号を理解し、しかも言葉で語り、特殊なものを一般的なかたちで考え、その思考の過程で、具体的なものにも、抽象的なものにも触れなければならない」。実に経済学とは、総合の学でなければならない。しかしケインズは、いったいいつ経済学を勉強したのだろう。

 一つの頷ける答えは、ケインズの父もまた高名な経済学者であったことだ。ケインズは四歳半にして、利子の経済的意味を独力で解読しようとしたという。

七歳になると、ケインズは父にとって楽しい会話の相手になっていた。この頃のケインズは、グッドチャイルド私立予備校という学校に通っていた。学校では、難しい宿題を手伝ってやる代わりに、教科書などの荷物持ちをさせる「奴隷」と呼ばれる生徒たちもいたという。

 抜群の学業成績から、ケインズは上流階級の生徒たちが主として通うイートン校の奨学金を得て、エリートにふさわしい青春を謳歌した。ケインズは、高得点によっていくつかの賞をもらい、ラベンダー色のチョッキを着て、シャンパンの味を覚え、ボートを漕ぎ、鋭い論争家として頭角を現した。

ケンブリッジ大学に入学してからも、ケインズはその天才ぶりを遺憾なく発揮する。A・C・ピグー教授(一八七七-一九五九)からは、週に一回の朝食に招かれ、ユニオンの書記長にも選出される。あらゆる才能に恵まれたケインズには、収入の少ない学者商売など、関心がなかった。いっそのこと鉄道を経営するか、企業のトラストを組織するかという、そういう野心を抱いていた。

 むろん、若き俊英に鉄道経営を任せる人などいない。ケインズはとりあえず、国家公務員試験を受け、ロンドンにあるインド省で仕事を始めた。ところがケインズは、自分が公務員に向いていないことにすぐに気づいた。官庁務めで学んだことと言えば、不穏当な発言は、軽くあしらわれるということだった。もちろん、民間の企業であれ官庁であれ、二〇代の若者に、重要な任務を任せる人などいないだろう。だがケインズは、官庁での主従関係がいやで、仕事以外の時間を使って、ひたすら確率論の研究に没頭した。

 二五歳になると、ケインズはケンブリッジ大学に職を得る。実はこの頃のケインズは、芸術家のダンカン・グラント(一八八五-一九七八)とホモ・セクシュアルな恋愛に耽る青年でもあった。二人は、スコットランドのホイ島に一ヶ月滞在したり、ギリシアやトルコを七週間かけて旅するなど、親密な関係を築いている。

 

 

■ 時代を駆け抜ける天才

 

 三二歳から三六歳にかけて、ケインズは、大蔵省の職員となり、国際問題へのアドバイザーとして活躍する。三五歳のとき、ケインズは、フランスの対イギリス貿易勘定を好転させるために、ある妙案を思いついた。フランスがイギリス国立美術館に、自国の名画を数枚売却すればよい、と提案したのである。彼はイギリス政府のために、コローやドラクロア、ゴーギャンやマネなどの、何十万ドルもするフランス絵画を購入した。自らはセザンヌの絵を一枚買っている。

 翌年、ケインズは大蔵省首席代表として、第一次世界大戦の戦後処理のために、パリ講和会議へ参加した。これは大変名誉のある任務だった。この会議でケインズは、ドイツに対する戦争借款の帳消しを提案した。ところが受け入れられず、失意を抱いて帰国する。ケインズはこのときの自身の希望を『平和の経済的帰結』というパンフレットにまとめたが、本書は世界各国で翻訳され、彼の名を一躍有名にすることになった。

 戦争をめぐる国際政治に失望したケインズは、今度は国際投機市場で一儲けしようと、大きな賭けに出た。破れかぶれではあったが、数千ポンドを資金として、投機を始めたのである。最初は、ほとんど全額をすってしまった。ところが彼の著作を読んで感銘を受けたというある銀行家の支援を受けて、ケインズは損益を取り戻し、最終的には二〇〇万ドルの財を築くことができた。この財力を活かしてケインズは、以降、絵画や古書の収集に精力を出し、また晩年にはケンブリッジに劇場を建て、自らその経営に携わったりもしたのである。

 四二歳のとき、ケインズはロシアのバレリーナ、リディア・ロポコヴァと結婚する。それまで数々の同性愛を経てきたにもかかわらず、衝撃的な身の治め方だった。以降のケインズは、サセックス州のティルトンの農家を借りて閑静な生活を送っている。公務としては、各種の政府委員会の任務をこなす一方、ケインズは自身の著作の執筆に没頭した。ケインズは、四七歳にして『貨幣論』(全二巻)、四八歳にして『説得論集』、五〇歳にして『人物評伝』、そして五三歳にして主著の『雇用・利子および貨幣の一般理論』を刊行している。四〇代後半から五〇代前半にかけてのこれらの業績は、圧巻である。

 

 

■ ケインズはケインズ主義ではない

 

 経済理論家としてのケインズの着眼点は、市場経済では失業が解消されずに一定の均衡状態が生まれてしまうという点にあった。市場経済は、循環的に恐慌に見舞われるため、結果として生産手段や労働力をうまく利用できていない。不況時には、本来あるはずの「有効需要」が不足してしまうからである。そこでケインズは、政府が公共投資を行うことで、人々の有効需要を補い、刺激し、経済を発展させることができると考えた。

ケインズによれば、市場価格の決定メカニズムは、美人コンテストの投票のようなものだという。美人コンテストでは、誰が一番美人かという「客観的評価」が定まるのではない。むしろ、だれが最も美人と思われているかという「間主観的な確率」が問題になる。他人の主観的な評価に対する期待が問題なのである。市場の場合も同じで、市場では商品の客観的価値が決まるのではない。その商品を、多くの人々がどれだけ評価するかが問題で、しかもその主観的評価は根拠もなく変動してしまう。

ケインズはこのように発想し、市場を安定させるためには政府介入が必要であると訴えた。だがその発想自体は斬新なものではなく、当時のニューディール政策を擁護するための理論的根拠を与えたにすぎないといえる。

 ケインズは、介入主義者として革命的なのではなかった。彼はまた、政府介入をいつも擁護したのかというと、そうではない。ケインズは毎朝目覚めると、まるで新生児のように新しい着想を得たという。ケインズは、自分の考え方にすら囚われない柔軟性をもっていた。彼がもし生きていたら、ケインズ主義と呼ばれる考え方にも反対しただろう。ケインズは、あらゆる因習を打破する知性において、真に革命的だったのである。彼なら今日、「構造改革」と呼ばれる政策を擁護することすらできたかもしれない。

 

 

【コラム】ブルームズベリー・グループ

 

 1937年、ケインズは54歳のとき、バクテリア性の心内膜炎が原因で心臓発作に見舞われた。翌年になって主治医は、ケインズが通常の活動に復帰することを認めたものの、ケインズはその年の講義を休み、ブルームズベリー・メモワール・クラブ(同窓会)で、「若き日の信条」と題する講演を行なっている。

この講演でケインズは、自分が若い頃、誤った生活信条をもっていたことを反省している。盛りの50代に病に倒れたケインズは、その原因を自身の20代の生活に求めたのである。

ケインズは当時、「ブルームズベリー・グループ」の中心的なメンバーだった。このグループは、ケンブリッジやロンドンの知識人たちが集う知的サークルで、ケインズのほかに、哲学者のバートランド・ラッセルや作家のヴァージニア・ウルフ、文学者のリットン・ストレイチーなどが属していた。

 ケインズによれば、当時のメンバーたちはG・E・ムーアの『倫理学』に影響され、愛や美的体験の享受、あるいは知的探究といったものに最大の価値を置いていた。反対に、日常道徳を軽んじる傾向にあった。重要なのは自分の活動の成果ではなく、時間を超越した美を観照することだというのである。こうした信条に沿って、ケインズらは、あらゆる行動規範を不自由なものとみなし、とりわけ性道徳を否定した。「われわれは伝統的な知恵だの、慣習の掣肘だのを、まったく尊重しなかった」

 ところが55歳になったケインズは、知性では合理的には理解できない事柄にこそ、人間の豊かさがあることに気づいた。「人間の本性を合理的なものと見なしたことには、今にして思えば、人間性を豊かにするどころか、むしろそれを貧弱なものにしたように思われる。それは、ある種の力強く価値ある感情の源泉を、無視していた」というのである。

 若きケインズは、当時のイギリスを支配していた道徳、すなわち、品行方正、貞淑、誠実、勤勉などの徳目を重んじるヴィクトリア朝の道徳を頭から否定した。その道徳を再発見するに至ったケインズは、しかし、以降も心臓発作に苦しみ、8年後に63歳で亡くなった。

 

 

 

 

第六回 資本主義の発展を冷徹に観察する天才〜ソースタイン・ヴェブレン

 

(プロフィール)

ソースタイン・ヴェブレン(Thostein Veblen 1857-1929)。アメリカの経済学者。制度派経済学の祖と呼ばれる。主著は『有閑階級の理論(The Theory of the Leisure Class)』

(リード)

南北戦争後、アメリカは資本主義経済が急速に発展していく。その高揚した気分のなかで、ひとり、冷めた目で社会を分析した人物がいる。異端の経済学者、ソースタイン・ヴェブレンである。著名な経済学者のなかでもその独特の個性は際立つ存在だ。ヴェブレンの著作は独創的で批判精神に満ちており、その後の経済学に大きな影響を与えた。のみならず、一〇〇年を経た現代の消費社会をも見通している。

 

 

 

■ 存在するものはすべて間違っている

 

 小伝作家ベイツは、ソースタイン・ヴェブレンを次のように表している。

 「一匹狼で、多くの敵に囲まれていたが、彼には『時代』という強力な味方がついていた。」「政治・経済のあらゆる思想家のなかで、彼だけが今日なお生き残っている思想体系を生み出したのだ」。

 時は19世紀後半のアメリカである。ノルウェー移民の二世として生まれたヴェブレンは、後に『有閑階級の理論』を著して絶賛されることになる。けれどもそこに至るまでの道は、あらゆる困難に満ちていた。

 父トーマスは、小作農の一人息子として生まれ、兵役を務めた後に、アメリカへと移住した。移住のための旅は過酷だった。乗船していた6歳以下の子供たちは、みな死んでしまったという。父も熱病にかかり、長い船旅で衰弱しきっていた。アメリカに着くとすぐに工場で働きはじめたものの、2週間で続けることができなくなる。母も働いたが、続かなかった。その後、父と母はウィスコンシンで親戚家族とともに農業を営み、12人の子供を育てた。その6番目の息子として生まれたのが、ソースタイン・ヴェブレンである。

 教育熱心な両親に育てられたヴェブレンは、まるで宇宙人のように世間離れした人間だった。皮肉屋の人間嫌いで、哲学を志して読書に耽る毎日だった。けれども禁欲的な生活は大の苦手だった。後にヴェブレンは、多くの女性といっしょに生活をしたりもしたという。

ヴェブレンは、貧しかったがカレッジに入って優秀な成績を収めた。父は教育熱心で、カレッジのキャンパスに隣接する土地を買って、そこに仲間の大工たちといっしょに、一週間で家を建てたという。食べ物はすべて農場から持ちこんで、お金はすべて普段着るための服と授業料と書籍代で消えていった。

 学校でのヴェブレンは、人を見下したような横柄な人と映ったようだ。「存在するものは、すべて間違っている」というのが、ヴェブレンの考えであった。「誠実ではなかったし、落ち着きもなかった。また人徳がなく、判断力を欠いていた」といわれる。

そんなヴェブレンも、恋をした。あるとき大学に足を踏み入れると、学長の姪のエレン・ロルフに出会った。「その日から彼は、他の一切が眼に入らなくなった」という。エレンとヴェブレンは、多くの時間をいっしょに過ごした。パーティのときも、二人はいつも隅の方で、人の邪魔にならないような小声で話をした。エレンの父は資産家だったが、彼女は幼いときに母親と死別して、継母に育てられていた。そんなエレンにとって、才気があってのろのろとしたヴェブレンは、とても魅力的にみえたようだ。

 

 

■ 村一番の怠け者

 

 23歳になったヴェブレンは、しばらく兄とともに、ジョンズ・ホプキンス大学に籍を置いた。兄は途中で所持金が尽きて博士号を諦めたが、ヴェブレンは兄と離れてイェールに向かい、借金をしてできるだけ生活費を切り詰め、なんとか哲学の博士号を取得することができた。

ところが当時の状況は、ヴェブレンのようにキリスト教に懐疑的な人は、なかなか大学に職を得ることができなかった。当時のアメリカの哲学は、キリスト教神学を基本としていたからである。仕方なくヴェブレンは、家族の元に戻った。自分は病気になったのだ、と言い張ることにした。28歳のヴェブレンは、いまや堅実な農村社会のなかで、唯一の怠け者だった。本を読んではぶらつき、ぶらついては次の日も本を読んだ。そのときに会話に付き合ってくれたのは、すばらしく頭の切れる父親であったという。

 ヴェブレンは、ときどき森でキャンプ生活を送り、数日間も寝泊りしたこともある。あるとき、巨大なキノコを発見して、それをカールトン大学の教師に見せに行ったこともあった。

いまや31歳になったヴェブレンは、幼馴染みのエレンと結婚した。ヴェブレン家の人たちは、エレンの持参金のおかげで、彼がなんとか学究生活を続けられるのではないかと期待した。二人はしばらく、田園生活を楽しんだ。エレンによれば、「私たちは牛と馬を1頭ずつ飼い、四輪馬車を持っていました。……川がありボートもありましたし、まだ自然のままの森で植物採取をしたり、冬にも夏にもピクニックに行きました。」

 

 

■ 勤勉と節約を避けることこそ美徳?

 

 結婚したヴェブレンは、とにかく大学で哲学の教授職を探したのであるが、ことごとく失敗している。やはり経済学の方が、大学教授になる機会が多いのではないか。そう思ったヴェブレンは、なんと34歳にして進路を改め、ニューヨークのコーネル大学に学士入学したのだった。その翌年、年520ドルが支給される特別研究生の身分をシカゴ大学で得ると、そこで講義をはじめ、ようやく同大学で講師に昇進することができたのは、ヴェブレンが39歳のときだった。

 その同じ年に著されたのが『有閑階級の理論』である。有閑階級とは、「ヒマ」があって、勤勉に働かなくても生きていける人たちのことだ。例えば、統治、戦闘、学術、宗教的職務などに携わる上流階級の人たちである。下層階級の人たちは、金銭を蓄えるために、勤勉と節約の美徳を重んじる。これに対して上流階級の人たちは、そのような勤勉と節約を避けることこそ、美徳だと考える。古代ギリシアの時代から現代に至るまで、価値あるものはすべて、たんなる努力によっては得られないものとみなされてきたからである。

すぐれた価値は、政治や戦闘や芸術において、卓越したものでなければならない。卓越を手に入れるためには、まず労働を逃れ、時間を非生産的に過ごすことができなければならない。要するにまず「ヒマ」が必要であり、ヒマを使って、行儀作法や鑑識眼を身につけないと、価値あるものを理解すらできないというわけだ。

 単純な農村社会では、ヒマな人は少ないので、文化は発展しない。ところが生産力の増大とともに、ヒマな人が増えると、彼らは競って「嗜好(テイスト)」を洗練させていく。金銭的に成功した男は、もはやたんに蛮勇であるだけでは不十分で、頭が足りないと思われないために、テイストを磨かなければならない。例えば食材や衣服やゲームや建築などについて、目利きにならなければならない。そのような審美眼を養うためには、ますますヒマな時間が必要であり、地位と富に恥じない有閑生活の作法が求められることになる。

 こうして発達した社会では、もはやたんに富を稼いで贅沢することが目標となるのではなく、ヒマな時間を使って審美眼を養うことが目標になってくる。ところが十分なヒマがない家庭では、夫が一生懸命働いて、妻だけ有閑マダムを楽しむという形態がうまれたりする。また金を稼ぐことよりも、審美眼を磨きたいという人は、無一文の有閑紳士になって、上流階級に隷属することを望んだりもする。

こうして有閑階級が社会を支配すると、人々はそのなかで、ワンランク上の生活を求めて競い合うことになる。例えば女性は、優雅なドレスやフレンチヒールを身につけ、髪の毛を長くたらすことによって、自分が労働者ではないことをアピールしたりする。人々は、労働を逃れ、「ヒマ」であることを顕示するような文化を発達させていくというのである。

 有閑階級はさらに、その支配的な地位を維持するために、保守的な文化を発達させていく。一見すると時代遅れと思われるような衣装、骨董品、古美術などに対する審美眼を発達させていく。そのようなテイストは、新興の中産階級によっては、なかなか身につけることができない。こうして支配的な有閑階級は、文化的な地位をながく維持しようとするのである。

有閑階級は、保守的な文化を洗練させることによって、社会の進化を妨げる。これはまさに、現代日本の文化状況でもあるだろう。社会は顕示的で贅沢な消費から、成熟した保守主義へと発展していく。ヴェブレンの観察は、驚くほど現代にも当てはまっているのではないか。

 

 

【コラム】ものぐさな人間

 ヴェブレンは風変わりな子だった。彼はしょっちゅうけんかをした。ミネソタで迎えた最初の日曜日には、もうけんかをしていた。さらに女の子をいじめ、年寄には妙なあだ名を付けて、からかった。

 とにかく勤勉に働くことが嫌いで、2マイル離れた第二農場で働いている人々に食べ物を届けるという簡単な仕事さえ、よくほったらかした。農場でもよく怠けた。働くべき時間でも、屋根裏部屋で寝たり、あるいはノルウェーの古い新聞を読んだりしていたという。

 けれどもヴェブレンは、機械を操作するという畑仕事には関心があった。農場にはじめて刈取機が持ち込まれたとき、彼はそれを操縦した。労働を節約し、ほんのちょっと身体を動かすだけで仕事を終えることができるからだ。周囲の人は、ヴェブレンを「ものぐさな人間」だと思った。ヴェブレンにとって労働とは、最も回避すべき苦痛なのだった。

 そんな彼は、資産家の娘で、同じく文才のあるエレンと結婚する。自由になるお金は少なかったものの、二人はエレンの父に従属することで、二流の有閑生活を楽しんだ。ところがヴェブレンは、39歳にしてシカゴ大学に教授職を得ると、金銭的にも余裕が生まれ、エレンに頼る必要がなくなる。ヴェブレンはいまや有名人で、何度かヨーロッパ旅行をする機会があった。そのときにアイスランド系の美しい婦人たちとの交際を楽しんだ。

スタンフォード大学に移ると、ヴェブレンは妻と別居してしまう。別の女性がヴェブレンの家に転がり込むと、それがうわさとなって、ヴェブレンは大学を辞職せざるをえなくなった。その後のヴェブレンは、ミズーリ大学で非常勤の講師職を得て、なんとか生活をつないだ。ヴェブレンは結局、エレンと離婚し、57歳にして子持ちの別の女性と再婚する。その女性は、ヴェブレンの有閑階級理論に従って、子供たちを育てた。例えば、子供たちには早起きを強いず、できるだけ朝寝坊をさせて学校に通わせたという。

 

 

 

 

第7回 最終回 市場を擁護する二〇世紀最大の経済思想家〜フリードリッヒ・フォン・ハイエク

 

(プロフィール)

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek  1899-1992)は、オーストリア生まれの経済学者。20世紀を代表する経済思想家。主著は『隷従への道』(The Road to Serfdom)、『自由の条件』(The Constitution of Liberty)。母方の従兄弟にルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいる。

 

(リード)

昨今、「新自由主義」を批判する言説が目立つ。しかし新自由主義とはいったい何のことだろうか? 今回取り上げるのは、新自由主義の祖と呼ばれるフリードリッヒ・ハイエクだ。ファシスト、社会主義者、ケインズらとの論争を経て、いささかも揺るがないハイエクの思想体系は壮大にして独創的、そして魅力的である。まさに20世紀を代表する、思想家の中の思想家といえるだろう。

 

 

 

■「いつか、いっしょになろう」

五〇歳にしてみのった初恋

 

新自由主義の擁護者として知られるフリードリッヒ・フォン・ハイエク(一八九九-一九九二)は、晩年になって日本をとても気に入っていた。ハイエクは伊豆の避暑地で休暇をとったり、京都を訪れたりしている。日本人は、多神教で神道も仏教も信じている。それが寛容でいいのだという。

「ほとんどすべての日本人は、ある面では神道の信者であり、別の面では仏教徒であって、このような態度は融和可能なものだと考えられています。すべての日本人は、神道信者として生まれ、結婚し、埋葬されますが、彼らの信仰はすべて仏教徒のものです。これはすばらしいあり方だ、と私は思います。」(『ハイエク、ハイエクを語る』より)

 一神教のキリスト教は不寛容だけれども、多神教は受け入れやすい。そう思うハイエクは、実はキリスト教の縛りに苦しめられた経験がある。イギリスで離婚しよう思ったのだが、当時のイギリスの法律は不寛容で、離婚の手続きにはどうしても妻の合意が必要だった。それでハイエクは考えた。合意しない妻と離婚するには、どうすればよいのか。

 一九二六年、ハイエクは二七歳のときに最初の妻ニー・ヘレン・フォン・フリッシュ(「ヘラ」と呼ばれていた)と結婚する。だがそれは成り行きまかせの結婚だった。妻のヘラは、ハイエクが働いていたオフィスの秘書で、ハイエクによれば彼女は、最初の恋人ヘレーネとよく似ていた。ところがヘレーネは別の男と結婚してしまったので、その反動でハイエクはヘラと結婚したというわけである。

 その後のハイエクは、ヘラとのあいだに二児をもうけ、ロンドン大学に職を得る。だが心は最初の恋人ヘレーネに向けられていた。三五歳になると、ハイエクはロンドンから故郷のウィーンへと赴き、ヘレーネと再会している。そのときにハイエクとヘレーネは、パラフィン燈の灯りに照らされて、その炎が消えてなくなるまで、眠らないで夜を過ごした。そしていつかいっしょになろう、と誓ったのだった。

 だがそれから、長い年月が過ぎた。一九四九年、ハイエクは五〇歳になると、妻子を捨ててアメリカに渡る決心をした。娘のクリスティーヌは二〇歳、息子のローレンスは一五歳のときである。ハイエクは、寛大な離婚法があることで有名なアーカンソー州のアーカンソー大学で客員教授になり、そこで正式に法的な離婚の手続きを済ませたのであった。それから数週間後、ハイエクは二番目の妻となるヘレーネとウィーンで結婚した。五〇歳にして初恋を成就させたわけだ。

 

 

■ 市場が優れているのは価格シグナルによって

自生的秩序が生みだされるからだ

 

 ハイエクといえば、ケインズと並んで賞される二〇世紀最大の経済学者である。二〇世紀の経済学は、資本主義と社会主義の体制問題を中心に据えていたが、この問題に対して、マルクスのヴィジョンを根底から否定し、資本主義を徹底的に擁護したのがハイエクである。ハイエクは、法学・政治学・経済学・心理学・方法論・哲学などの諸学を総合し、自由主義を中心に据えた壮大な思想体系を築いた。

 とりわけ有名なのは、一九三〇年代に展開された社会主義経済計算論争であろう。この論争を通じて、ハイエクは社会主義の誤りだけでなく、市場を擁護する均衡理論の根本的な欠陥にも気づくことになった。均衡理論によっては市場システムを擁護することはできない。というのも市場は、完全情報のもとで瞬時に作用するようなメカニズムをもっていないからである。にもかかわらず市場経済が望ましいのは、なぜなのか。

 ハイエクによれば、市場がすぐれているのは、時と場所によって変化する断片的な知識を、価格シグナルを通じて有効に活用する点にあるという。たとえば、森林資源が稀少になり、その価格が上昇したとしよう。すると、価格が上昇したというシグナルは、森林資源を購入する業者たちに対して、代替的な生産手段の模索や、生産工程の改良といった行動を促すであろう。市場は価格シグナルを通じて、人々に最適な行為をとるように促す。そして社会全体として、誰も意図しなくても、自生的な秩序を生み出すというわけである。

これに対して当時の合理主義者たちは、経済に関する情報をすべて中央当局に集めて、最適価格と最適な生産量を総合的に決定するほうが効率的だ、と考えた。けれども知識(情報)は刻々と変化する。また各人のカンやコツのような実践知(ノウ・ハウ)は、そもそも言語化することができないので、政府が利用することはできない。これに対して市場システムは、価格シグナルを通じて、社会に分散した知識を有効に利用する。各人は、必要な価格シグナルだけに注意を集中して、そこから最適な経済活動を選ぶことができる。また価格メカニズムを通じて、市場は無数の個人の目的を調和させることができる。

市場は、もしそれがなければ中央当局が行なわなければならない複雑な情報処理を、諸個人の意思決定に分散して解決することができる。市場がすぐれているのは、効率的な需給の一致を達成するからではない。むしろ、不完全で分散した知識を、価格シグナルの伝達によって有効に利用するからである。ハイエクはこのように、新古典派の理論には依拠しないで、市場経済のメリットを説いたのだった。

 

 

■ いっそう多くの自由が達成されるならば、

人々の自由を制限することも許容される

 

けれどもハイエクは、市場経済を野放しにすればよいと言ったのではない。ハイエクは、多くの国家介入を認めていた。例えば、防衛、警察、疫病や自然災害の予防、義務教育といった事柄、あるいは、道路建設のための土地の強制収用、職業ライセンスの許可制度、ポルノグラフィーの法的規制などである。ハイエクは、「いっそう多くの自由が達成されるならば」という理由で、人々の自由を制約できると考えた。このハイエクの立場は、自由主義と言っても特殊である。市場メカニズムを原理的に擁護するのではなく、ある程度まで社会の秩序形成を優先するからである。このハイエクの立場は、古典的自由主義とは区別され、「新」自由主義と呼ばれている。

 新自由主義の思想はしかし、他方では政府介入に歯止めをかけるために、原理原則を強調する。政府の恣意的な介入よりも、ルールによる統治を求めるのである。

ルールには、意図的に設計されたルールのほかに、暗黙のルールや、慣習法のように伝統を明示化したルールがあるだろう。合理主義者であれば、あらゆるルールを合理的に設計し直そうとするかもしれない。しかし人間の理性には限界がある。たとえば「よい日本語」というルールは、一定の諸個人の言語感覚に体現された暗黙的なルールであって、誰も意図的に設計することはできない。同様に、正義感覚やフェア・プレイの感覚なども、うまく設計することはできない。これらのルールは、必ずしも合理性の基準に照らして採用されているのではなく、合理的でなくても実践的にうまくいく、あるいは審美的に望ましい、という基準で採用されている。

ハイエクによれば、市場の諸々のルールについても同じことが言えるという。例えば財産権の複雑なルール体系は、歴史のなかで受け継がれてきたものであり、各世代は、ルールの全体を合理的に把握しているわけではない。けれども私たちは、実践的には既存のルールに従いつつ、これに部分的な修正を加えながら、巨大な市場社会を運営することができる。市場をとりまく様々なルールは、歴史の進化過程を生き抜いてきたのであり、一見すると非合理的に見えるルールでも、進化論的な観点から一定の価値を認めて保持する必要がある。少なくともそのような原則的な態度がなければ、私たちの社会はうまく機能しない、というのがハイエクの洞察であった。

 

 

【コラム】サッチャー政権の教祖的存在

 

1975年、マーガレット・サッチャーがイギリスの保守党の党首に選ばれたとき、ハイエクはサッチャーと初めて面会した。サッチャーが先に帰ると、周囲のスタッフたちはハイエクに感想を求めた。ハイエクはそのとき物思いに沈んで、「彼女はなんて美しいのだろう」と述べたという。

 サッチャー党首は、保守党がまだ政権を掌握していないときから、ハイエクの思想と政策を信奉していた。保守党がアジェンダを作成しているとき、サッチャーはこれに異議を申し立て、カバンの中からハイエクの大著『自由の条件』を取り出した。そしてその本を皆が見えるように高く上げると、「私たちが信じるべきものはこれです」と言って、その本を机の上に叩きつけた。

1979年に『法・立法・自由』の第三巻が出ると、ハイエクはそれをサッチャーに送った。それから1ヶ月経たないうちに、サッチャーは首相に選ばれた。そのときサッチャーは、ただちにハイエクへ次のような電報を送っている。

「過去数年間にわたって、私はあなたから、たくさんの事柄を学んできたことをとても誇りに思います。そうした考え方のいくつかは、私の政権によって実現したいと考えています。あなたの熱烈な支持者の一人として、私は断固たる態度で、私たちが成功すべきことを確信しています。もし私たちが成功すれば、私たちの至上の勝利に対するあなたの貢献は甚大なものとなるでしょう」

ハイエクはこの返事にとても心を動かされた。ハイエクはその後、サッチャー首相にさまざまな政策助言をしている。例えば、労働組合の存続をめぐる国民投票をすべきだと提案した。この助言には、サッチャーは丁重に断った。ハイエクはサッチャー政権の教祖的存在とみなされるが、提案がいつも、そのまま受け入れられたというわけではない。けれども労働組合の特権廃止や、インフレーションの制御といったハイエクの提案は、サッチャー政権によってある程度まで実現されたのである。